その勉強、お子さんの「思考」を深めていますか? 静大附属中が問いかける、量の先にある“質”
お子さんの背中を見つめながら、ふと胸をよぎる不安。夜遅くまで机に向かい、たくさんの問題集を解き、マーカーで色鮮やかになった参考書を眺めるとき、親として「これだけやっているのだから」と自分に言い聞かせる気持ちと、「本当にこれでいいのだろうか」という声にならない問いが、心の中で交錯することがあるのではないでしょうか。
先日、あるお母さんが、こんなお話をしてくださいました。「息子は本当に真面目で、塾の宿題もきちんとやります。でも、応用問題になると、途端に手が止まってしまうんです。あれだけ時間をかけているのに、なぜでしょう…」。その言葉には、お子さまの努力を誰よりも信じているからこその、深い苦悩が滲んでいました。
私たちはつい、努力を時間や量で測ってしまいがちです。しかし、静岡大学附属浜松中学校の入試問題と静かに向き合っていると、彼らが受験生に問いかけているのは、少し違う次元のことではないかと感じずにはいられません。
たとえば、算数。数年前から、単純な計算問題が姿を消し、その代わりに長い文章を読み解き、思考のプロセスそのものを問う問題が増えてきました。 これは、単に「算数ができる子」を探しているのでしょうか。それとも、数字やデータという言葉で書かれた物語を、深く、正確に読み解く力を持った子を求めているのでしょうか。問題用紙の上で、子どもたちは計算をしているように見えて、実は、与えられた条件の中から本質をすくい上げ、論理という糸で丁寧につむいでいく、そんな静かな対話を求められているのかもしれません。
国語もまた、その傾向は顕著です。 問題文の難易度は高く、表面的な読解では歯が立たないような、精緻な読みが要求されます。それはまるで、速くゴールにたどり着くことよりも、道端に咲く小さな花の意味や、森の奥から聞こえる微かな音に気づけるかどうかを、そっと試されているかのようです。
興味深いのは、入試形式が大きく異なる浜松西高中等部と、求められる能力が驚くほど似通ってきているという事実です。 両校とも、知識の暗記だけでは通用しない、深い思考力と、それを自分の言葉で表現する記述力を、核となる力として評価しています。
形式は違えど、二つの学校が同じ地平を見つめている。この事実は、私たち親に何を語りかけているのでしょうか。これは、これからの社会を生きていく子どもたちにとって、本当に必要とされる力が何かを、学校が示してくれているサインなのかもしれません。
お子さんが解き終えた問題の、丸の数、バツの数。もちろん、それは大切な指標です。でも、もしよろしければ、ほんの少しだけ、その向こう側を覗き込んでみてはいかがでしょうか。
一つの問題の前で、お子さんはどんな表情で思考の旅をしているでしょう。すぐに答えが出なくても、粘り強く、ああでもないこうでもないと、自分だけの地図を描こうとしているでしょうか。その目には見えない頭の中での冒険こそ、静大附属中が、そしてこれからの社会が、最も価値あるものとして見つめている「学びの原石」なのかもしれません。
たくさんの情報を与え、たくさんの問題を解かせること。親としてできる限りのことをしたいと願うその愛情が、時として、子どもたちが一つの問いとじっくり向き合い、深く潜っていく時間を奪ってしまっているとしたら。それは、とても切ないことだと思うのです。
お子さんの学びの時間は、思考が豊かに「深まる」時間になっていますか。それとも、ただ情報を「こなす」時間になっているでしょうか。
その答えは、お子さんの答案用紙の中ではなく、問題と向き合う、真剣で、美しい眼差しの中にあるのかもしれませんね。
2025/08/06 Category | blog
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