静大附属浜松中入試②:学校からの「挑戦状」。なぜ、算数が最初に来るのか?

たかが試験の順番。されど、順番。

前回、附属浜松中の入試で、来年から算数が国語の前に来ることの意味について、私の胸のざわめきをお話しさせていただきました。

「小さな変化に、大きな意味が隠されているのではないか」と。

今日は、その核心に、もう少しだけ踏み込んでみたいと思います。この変更は、決して偶然や気まぐれではありません。そこには、学校側の明確で、揺るぎない「戦略」が存在します。そしてそれは、私たち親と子に向けられた、静かな「挑戦状」とも言えるものなのです。

一体、学校は何を考えているのでしょうか?以下に現時点での私の考えを述べます。


思考力の「純度」を、見極めたい。

まず、学校がなぜ算数を一番最初に持ってきたのか。その最大の理由は、子どもたちが持つ思考力の「純度」を、最もクリアな状態で見極めたいからです。

想像してみてください。試験当日、緊張と期待が入り混じる中、子どもたちは静かに席に着きます。チャイムが鳴り響く、その瞬間。頭の中は、まだ誰にも汚されていない、真っ白なキャンバスです。エネルギーは満タン。集中力は、その日、最も研ぎ澄まされている。

学校は、その「最高の状態」で、子どもたちの頭脳に触れたいのです。

もし、従来通り国語が先だったらどうでしょう。長文を読み解き、登場人物の心情を深く読み取る。その過程で、頭の中にはたくさんの言葉や感情が渦巻きます。それは素晴らしい知的作業ですが、同時に、脳は少しずつ疲れていく。思考のモードも、情緒的、言語的なものへと切り替わっていきます。

その後に、論理と構造の塊である算数の問題に向き合ったとき、果たして子どもたちは、持てる力の100%を発揮できるでしょうか。国語で使ったエネルギーの残りで、複雑なパズルを解き明かせるでしょうか。

学校は、そこに「ノイズ」が混じることを、良しとしなかった。

国語の影響というフィルターを一切通さない、混じり気のない、その子の持つ論理的思考力そのもの。いわば、思考力の「すっぴん」を見たい。これこそが、算数を最初に持ってきた、一つ目の、そして最も重要な答えなのです。


算数は、最も正直な「実力判定機」

そして、もう一つ。残酷な言い方になるかもしれませんが、中学入試において、算数は最も実力差がはっきりと表れる、正直な「実力判定機」だからです。

国語の記述問題なら、「部分点」がもらえるかもしれません。社会や理科の知識問題なら、一夜漬けの暗記で、どうにかなる部分もあるかもしれない。

しかし、算数は違います。

答えは、ほとんどの場合、一つだけ。途中式が合っていても、最後の答えが違えば、容赦なく「×」がつく。そして、その問題は、小学校で習う知識をただ組み合わせるだけでは到底解けない、深い思考の海に潜らなければ、決して辿り着けないように作られています。

それは、一夜にして身につく力ではありません。コツコツと、来る日も来る日も、粘り強く問題と格闘し、自分なりの解法を模索し続けた時間。その、膨大な「思考の積み重ね」だけが、点数として現れる。ごまかしが一切効かない、真剣勝負の世界です。

だからこそ、学校は算数を使うのです。

この厳しい競争の中で、本当に「考える力」を持った子を見つけ出すために。長期間にわたって努力を継続できる「やり抜く力」を持った子の「原石」を見つけ出すために。算数は、最も信頼できる物差しなのです。


「我が校が求めるのは、この力だ」という宣言

これらを踏まえると、今回の変更が、学校からの力強いメッセージであることが、はっきりと見えてきます。

「我々が、これからの未来を創る子どもたちに、何よりもまず求めるのは、論理的に物事を考え、粘り強く問題と向き合う、この『思考体力』である」

これは、学校がその教育理念を、入試の科目順という、誰の目にも明らかな形で高らかに宣言した「価値の表明」に他なりません。

このメッセージは、私たち親に、そして子どもたち自身に、鋭く問いかけてきます。

「あなたは、目先の点数やテクニックばかりを追いかけていませんか?」

「小手先の解法パターンを暗記する作業に、時間を浪費していませんか?」

「一つの問題に、泣きそうになりながらも、食らいついていく。その子の尊い時間を、隣で見守り、励まし、共に考えることをしていますか?」と。

学校からの「挑戦状」は、私たち親子の日々の在り方、学びへの向き合い方そのものを、静かに、しかし、根本から揺さぶってくるのです。

では、この挑戦状に、私たちはどう応えていけばいいのでしょうか。

その具体的なヒントについて、次回、さらに深く掘り下げていきたいと思います。


2025/10/15 Category | blog 



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